ヨガをしていると必ず耳にするであろう「禅」
難しく感じる人もいるかと思うが禅は言葉にして表現すると「考えるな、感じろ」である。
今文章にしていておかしなことになっているが、「言葉にして考えるのではない」感じるもの、という考え方です。
言葉というのはこの文章を読んでくれている方は「日本語」がわかるから伝わっているわけで「日本語」という共通言語を介して会話したり意思疎通をしています。
ではこの言葉を使わずに「禅を伝えて」と言われたらどうしますか?それが禅です。
上記の文章だけで禅問答みたいになっていますが、禅問答とはそういうことです。
なんだかとってもややこしくなってきたので少しこの話題から逸れます。
自分のいる世界とは
これはなんですか?と聞かれたら
「コップ(カップ)」と答えると思います。
でもこれは陶芸等やったことある方ならわかると思いますが、元々「土」ですよね。
ただこれを見て「土」と答えないのは「コップ」という言葉を知っていて、このかたちのこの形状のものをコップだと認識している共通言語があるから成立しています。
そしてこのコップは花を生ければ「花瓶」と呼ばれ、お店に並べば「商品」と言われる。
実際、そのものはそう読んでいるだけで存在していないのです。
私たち自身も、時には名前で呼ばれ、役職で呼ばれ、もしくは父母兄弟などの役割で呼ばれたり変化していませんか。
「兄と弟ってどっちが先に生まれていますか」と質問されたらどう答えますか。
兄と弟って同時に生まれていますよね。
弟が生まれなければ兄という存在は生まれない、そう呼ばれないわけです。
親子も同様で、子が生まれなければ親は生まれない。
そういう役割は誕生しないわけです。
「社長」って人見るとなんか偉そうとかすごそうって思いませんか。
別に社長じゃないけど社長って名乗ってた人がいてもです。
我々はずっと何かの役割の中で生きていてフィクションの世界にいるのです。
言葉って便利。
だからこそ言葉は時には邪魔になるのです。
人間も空気を吸って食べ物を食べて生きているわけで、食材も元を辿ったら土で…みんな土なんです。土を辿ったら…(この辺でやめておきましょう)
決めつけるのではなく、全ては繋がっていて、全ての関係性で成り立っているのです。
母と父の役割をする人がいるから自分が生まれているわけで、これが縁と言われるものの正体です。
全ては幻
先程、全てが土と言いましたが目の前に建物が見えているとしたらそれも誰かが作って「ビル」などと名付けてそう呼んでいるだけのフィクションです。
山や自然だって○○山と名付け、境界線を引いてるだけで、実際は境界線なんて目に見えるものはなく全部繋がってます。
これ、永遠と話していたら頭おかしくなりそうですね。
普段持っている役割をそぎ落としフィクションが終了したこの言葉にできないことが「空(くう)」
先日7年間勤めたレッスンが終了しました。
あの瞬間が「空」を感じた瞬間。
レッスンというものが消滅し(スタジオがクローズするのでスタジオと呼ばれるものごと消滅)先生や生徒という肩書きがなくなる瞬間です。
役割や意味から解放されて何もなくなった感じ。
日常の中にも耳を傾け意識を研ぎ澄ませば、禅や空にたどり着く瞬間ってあると思います。
言葉って便利な分、頼りすぎると見失いがちな大事な瞬間をしっかり感じ取っていきたいなと思っています。
結構、鈍ってる人多くないですか。
考えるな、感じろ